Zレーサー2号機は、偶発的に生まれた マシンだった・・・
フロントフォークやスイングアームが 変形し、フレーム本体にまで ダメージが
及んだ、旧Zレーサー 1号機・・・
実は 大掛かりな修復を 施せば、直せない状態までは 至っておらず・・・
では なぜ・・・ オリジナルフレーム、2号機へと 移行したのか・・・
当時、彗星の如く登場した 漆黒のマシン、ラッシュディールZの 猛威に
対向するには、ノーマルフレームの Zでは 太刀打ちできないと言う 判断に
至ったが為である・・・
ディールZは オリジナルフレームに 空冷Zのエンジンを 搭載したマシンで
まだ大会が T・O・T に なる寸前・・・ T・O・F の後半に 突如 出現・・・
当時の空冷 最速クラス モンスターEVOLUTIONに、賞典外を前提として
登場・・・ そのコンパクトな車体が 生み出す走りは、全くの 別もので
ノーマルフレームを17インチホイール化した Z系レーサーとは、異次元の
違いを 見せつける・・・
常勝して来た、当時の39 本店レーシング クルー達に とって、初めて知る
勝てる気がしないと 言う、感情・・・
猛威は、脅威へと なっていた・・・
そんな2006年 当時・・・ ファースト世代達と 共に、選んだ選択肢は
自らも オリジナルフレームで、Zレーサーを 造り上げる事・・・
1号機を 修復するのではなく、オリジナルフレーム 2号機を 選択したのは
真向勝負を仕掛ける 決意の表れでも あった・・・
結果・・・
見慣れない 巨大常盤が設置され、様々な資料を基に 独自の治具を開発・・・
初めて臨む、オリジナルフレーム製作への 挑戦となる・・・
それは ファースト世代達 全員で、一台のマシンを 造り上げると言う
初めての 共同作業でもあった・・・
今まで培っていた 設備やテクニックでは、足りないものが 多すぎる・・・
身に付けたものだけで 足りないのなら、素直に 自分自身を否定する・・・
足りないものは 外部からも 補った・・・
だが これまで経験した事のない作業や、造り物に追われた 心理は
果たして本当に 完成するのだろうか・・・ と 言う、不安感へと たどり着く。
当時 最年長だった 中村は、39歳・・・
笹賀・川浪ですら 30代前半で、その他のメカニック達は 皆 20代だ・・・
手探りでも 力強く進む事が出来たのは、若さゆえの 挑戦だったのだと・・・
今さらに 思う・・・
そして 迷いながらも 突き進めたのは、競技専用車輌とは言え 事実上
自社製シャシーを 造ると言う、興味深い試みでも あったからであろう・・・
自ら造り 生み出したシャシーで、勝負する・・・
あの頃・・・ 決して 恵まれた環境とは言えない、狭く 薄暗い工場内で
眼差しだけが 輝いていた・・・
Zレーサー 2号機の製作が、順調に進む中・・・
T・O・F が T・O・T の 大会名に変更され、記念すべき 第一回目の大会で
モンスターEVOを越える、空冷最強最速 スーパーモンスター EVOクラスが
新たに、新設されると 知った・・・
恐らく ラッシュディールZ 以外の、オリジナルフレーム Z系レーサーは
この 2号機だけだろう・・・
それは すなわち、いきなりの直接対決を 意味する事でもあった・・・
シャシーの主要部と 装備の大半が 完成・・・
あとは入魂の、カワサキ空冷4気筒 心臓部を搭載するのみ・・・
空冷Zでの 筑波サーキット 59秒台ラップは、興味本位からの 話ではなく
実現を目指すべく 具体的な目標として、胸中にあった・・・
この時 笹賀が組んだエンジンは、後軸出力で 148.5馬力・・・
後軸出力は チェーンやタイヤなどの 伝達損失があり、エンジン単体での
測定値よりも 10%前後 低い表示となる・・・
つまり この時 原動機単体での出力は、160馬力を示す スペックであった。
強烈な出力ユニットを 搭載し、コンパクトな シャシージオメトリで 生まれた
オリジナルフレーム Zレーサー2号機は、ノーマルフレームベースの Zとは
全く異なる 動性能をしめした・・・
1号機を はるかに越える、強烈なインパクトを 持った 2号機のデビューは
鮮烈な、あの奇跡の逆転劇に 繋がるのだが・・・
何よりも 当時、情熱を燃やして臨んだ、初めての 自社製シャシー・・・
そのマシンで 激戦を制し、結果とノウハウを 残せた事・・・
これこそが最も 大きな成果だったと 言えるだろう・・・
やがて ノウハウは、我が愛機 RCM-001の シャシーへと 受け継がれ
そして 2016年・・・ US‐RCM A16 へと 昇華して行く・・・
今から10年以上も前に 産声をあげた、ファースト世代達の 挑戦こそが・・・
皮肉にも・・・
実はこの 革新 RCMプロジェクトの、原点である。